2012年4月8日日曜日

研究ノート - 黒岩政経研究所


はじめに
太平洋戦争の敗戦により、戦前から海上警備を担ってきた日本海軍が消滅し、日本の周辺に力の空白を生み出した。このことにより、日本領土内に密貿易や密出入国が増加し、コレラなどの病原菌が容易に国内に侵入する事態になった。しかし、日本政府にはこのような事態に対処する能力がなく、アメリカの初期対日占領政策や連合国最高司令官総司令部(General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers,以下GHQと表記)においては、非軍事化・非武装化を推進するため、いかなる警察力をも強化することを命令しなかった。しかし、日本の警察力は、冷戦の勃発とアメリカの占領政策の転換により、次第に増加し、特に海上警備についてはアメリカのコースト・ガードに似た組織を創設しようとするまでになったのである。
 
私が海上保安庁のことを書こうとした背景には、以前から研究していた旧日本海軍との違いを比較するためであった。また、海上保安庁は、後に海上自衛隊となる海上警備隊との関係で、興味のある組織であると思ったからである。なお、この研究ノートは、本大学院の『政経論集』第7号に掲載したものを再構成したものである。

 

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3.海軍に代わる海上警備体制の必要性
 GHQの要請で来日したミールス大佐は、GHQから「現存する沿岸警備および港湾警備の実状を調査し、警備機関設置に関する計画、組織(所要人員、装備を含む)および勧告を左の要領により提出せよ。1、(a)日本本土における海事機関。(b)必要と認められる一般警察隊に関する勧告。2、右は、貴官の本件に関する結論および勧告のため、必要な調査活動の範囲を限定するものではない」という指示を受けていた。それと同時にミールス大佐は、1946年現在の日本の経済能力範囲内であって、かつ施設・装備は日本政府が保有し、自力で入手できるものだけを利用するよう指示された。制限の理由は、占領政策の目的である非軍事化に抵触する恐れがあ ったためである。ミールス大佐は、依然として各省が独立して行なっている海上の治安警備の実状を視察して報告することになっていた。
 
 1946年6月、GHQは、ミールス大佐の報告を待たずに突然動き出した。それは、朝鮮半島においてコレラが発生し、急激に蔓延する恐れが出てきたためであった。当時の日本は、食糧不足と衛生環境の悪化により、朝鮮半島からの密貿易と密入国によるコレラ菌の侵入が容易であった。6月12日、GHQは日本政府に対して、朝鮮半島からの船舶を監視することとその船舶を含むすべての乗客・物資をアメリカ陸軍官憲に引き渡すことを命じた。日本政府は、この命令を受けて、監視のための船舶1直7隻の海防艦型船を2直分確保し、運輸省の海運総局に不法入国船舶監視本部を設置し、九州海運局に不法入国船舶監視部を置くことにした。しかし、日本政府が要求していた海防艦型の船は、賠償のための特別保管艦の指定や引き揚げ輸送、掃海作 業を優先的に行なうために配備されなかった。そのため、実際に不法入国を監視する船舶は、曳船3隻と港内艇13隻だけで監視を行なうことになった。これらの船舶は、船体の老朽化や武器の欠如、人員と予算などの不足によって、計画どおりにはいかなかった。


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 7月15日、次官会議において「大蔵、内務、厚生、司法及び運輸の各省は相互に協力して当たること」を決定した。その内容は、税関と警察の職員を監視船に乗せて、取り締まりを徹底させるというものであったが、実際には船舶の増強と武器の提供がなかったので、取締りの効果が挙がらなかった。12月10日、GHQは、日本政府に対して、朝鮮半島においてコレラが依然として蔓延しているため、よりいっそうの船舶監視を求める覚書を出した。日本政府は、監視を強化するために、再び船舶引渡しを申請した。1947年4月22日、GHQは、運輸省海運総局に旧日本海軍の駆潜特務艇28隻、哨戒特務艇10隻を引き渡すことを許可した。同年8月、大蔵省がこれらの船舶に対する定員を承認し、同時に昭和22年度の暫定予算が認められ、� ��料や食料などの消耗品と通信器材の整備ができるようになった。これらの船舶は、順次に整備されて海上保安任務に就くことになった。

 
1946年7月3日、ミールス大佐は、GHQに対して「水上保安組織についてはGHQから海運総局で此の組織を作る様に指令する」ように勧告し、「水上警察から水上における機能を総て海運総局に移す様に指令する」としている。また、「水上保安制度の根本は人命救助であるからこれに要する監視船は人命救助ならびに救難作業に適応した船舶でなければならない」と述べている。この文書では、日本政府に対して「GHQ内各部の責任者は日本の軍備再建を非常に警戒しているからかりそめにもこれを刺激する様な設備や組織の案を作ることは避けることが賢明」であると念を押している。しかし、この懸念は、ミールス大佐が思っていた以上に、国内外で大きな反響をおよぼすことになったのである。

 

 連合国とGHQの態度
1.初期占領政策
 占領初期における対日政策は、ポツダム宣言を基本としていた。ポツダム宣言には、軍国主義の除去や武装解除と復員、戦争犯罪人の処罰、民主主義の復活強化、基本的人権の尊重などを含む13項目からなっていた。このポツダム宣言の内容を実施するためには、具体的な方針が必要であったが、日本の降伏直後には存在しなかった。それは、日本の降伏が予定よりも早くなったこととアメリカ国務省内における知日派と中国派との対立があったことなどが挙げられる。アメリカ政府は、早期に占領政策を決定するため、国務・陸軍・海軍三省調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee,以下SWNCCと表記)において作成することになった。1945年9月6日、トルーマン(Harry S. Truman)大統領の承認を得た「降伏後におけるアメリカの初期の対日方針」は、後に正式にマッカーサー(Douglas MacArthur)に送付され、同月23日にホワイトハウスから発表された。これにより、日本の政治・経済・軍事・社会・文化全般にわたる初期の管理方針が、初めて具体的になったのである。


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 主な目的として、1つは、再び日本が世界の脅威にならないようにすることであり、もう1つは、国民の自由意思に基づく民主主義的な政府を樹立することであるとしている。内容としては、ポツダム宣言と重なるものがあるが、連合国の権限や武装解除非・軍事化・戦争犯罪人・経済上の非軍事化・賠償問題などが書かれていた。
 もう1つ重要な文書は、「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」である。1945年11月1日、この文書は、SWNCCによって承認され、11月8日に統合参謀本部からマッカーサーに通達されたものである。この文書は、マッカーサーの占領政策が具体的に実施できるよう規定したものであった。内容としては、日本を非軍事化し、日本の戦争遂行能力� �引き続き抑制することにあったのである。
 
2.冷戦の勃発と占領政策の転換
 1947年3月12日、トルーマン大統領は、議会の特別合同委員会において、後に「トルーマン・ドクトリン」と呼ばれる声明を発表した。トルーマン大統領は、この中でギリシャが政治的混乱状態にあり、この状態を救済するために、ギリシャに3億ドルの経済援助および軍事援助を、トルコに1億ドルの軍事援助の合計4億ドルの援助を決定し、それと同時にアメリカの理念と目的を明確に述べた。この演説は、反共主義と反ソ感情を明らかにしたもので、戦後アメリカ外交の転換点となったものであった。
 
 1947年6月5日、マーシャル(George C.Marshall)国務長官はハーバード大学の卒業式で、「ヨーロッパの危機に対するアメリカの行動」という演説を行なった。この演説は、ヨーロッパの経済復興を目指したもので、一般的には「マーシャル・プラン」と呼ばれるものである。当初の目的は、ソ連を含むヨーロッパ諸国を復興援助する計画であったが、ソ連の反対により、東欧諸国もこの計画に参加できなくなった。結果的に、アメリカは、ソ連と東欧諸国の市場を失いながらも、マーシャル・プランで西ヨーロッパ諸国を復興させた。このことが、米ソ冷戦の対立を明確にしたのである。

 
 日本における占領政策の転換は、ヨーロッパにおける米ソ冷戦の勃発に始まり、マッカーサーの提唱した早期対日平和条約に対する問題があると思われる。マッカ−サーの構想は、条約締結後も日本の非軍事化を継続させて、国連による安全保障体制を図ったものであったが、アメリカ政府の考え方と相違していた。ケナン(George F.Kennan)は、「日本は、極東における唯一の、潜在的な軍事・産業の大基地」であると認識しており、共産主義に対する脅威をどのように解決すべきかを考えていた。1948年3月1日、ケナンは日本に来日し、マッカーサーと幾度か会談し、日本国内の状況を観察した。ケナンは、「アメリカの対日政策に関する報告」を提出し、強力で効果的な沿岸警備隊の創設を提案している。
 
また、日本の占領政策の転換を促したものは、1948年1月6日の「ロイヤル(Kenneth C.Royal)陸軍長官演説」である。その内容は、占領の経済的負担の軽減を図るため、日本の経済的自立の必要性を説き、占領政策の転換を促したものであった。また、日本の経済的自立こそが全体主義に対する防壁になると発言した。占領政策の転換は、日本が冷戦構造に組み込まれることにより、非軍事化から経済的自立による自由主義陣営へ参加することになったのである。


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。 海上保安庁の成立
1.海上警備の組織モデル
 1946年7月3日、ミールス大佐の助言は、海上保安の一元的な中央機関設置の必要性を強調していた。そのため、日本政府は、これまで警察、税関、海運局などの各機関が独自に行なってきた業務を一元化することにした。日本政府は、包括的に海上保安を行なえる機関として、税関中心案、警察の強化拡充案、運輸省に新機関を設置する案などを検討した。1947年5月、次官会議において「運輸省に海上における保安関係法規の執行機関を作り、燈台局、水路部、その他の運輸省の海上保安関係機関をこれに統合する」ことに決定した。この決定には、上記の勧告と運輸省海運総局にある不法入国船舶監視本部が設置されていたことも考慮� ��れた。だが実際には、以下の理由により設置された。
 
@運輸省海運総局及び地方海運局は、我が国の管海官庁であって、従来も、燈台、水路、水難救助、船舶航行の取締り等海上保安の中枢的業務を所管しており、その他の海運局の事務すなわち運航の監督、船舶の検査、船員の監督及び訓練、海難審判、港長事務、港湾設備の管理等の業務も海上保安業務と極めて密接な関係を有していること。
 
A他の官庁は陸上行政を主たる業務としているので、その機構は海上業務に関する知識経験に乏しく、かつ、これを実行する実力を欠いていること。
 日本政府は、次官会議の決定を閣議で了承し、GHQに申請した。GHQは、この申請に対して、極東委員会と連合国総司令官(Supreme Commander for the Allied Powers,以下SCAPと表記)との関係やGHQ内の意見調整などに時間がかかり、1947年9月23日になって、海上保安機関の設置が認められた。
 ミールス大佐が構想した組織は、アメリカのコースト・ガードをモデルとして使用した。大久保武雄らが考えたものは、密航・密漁・密貿易・検疫・麻薬の取締り・海難救助・船舶の安全検査・船員の海技免状・灯台・海難審判などを所管し、これに掃海・水路測量を含め、アメリカのコースト・ガードよりも幅広い任務の組織であった。ミールス大佐は、海軍のない状態なので、この程度の組織は必要であると考えていた。また、大久保はGHQに要請して、将校を含む旧日本海軍軍人3,000名を採用する許可を得た。これは、彼らの専門的知識と技術を活用しようとしたからであった。このことに対してミー ルス大佐は、旧海軍軍人を使用することにも同意した。大久保が作った組織は、船艇の規模や武装、速力について、何の制限も設けなかった。この組織の任務としては�br/> 
 それとは反対に、キスレンコ(Aleksei P.
Kislenko)ソ連代表は、「自分はかかる決定を行うに当り最高司令官は理事会に諮り、又極東委員会の決定に先立ち独断的に措置を採り得るものではない」として、付託条項の違反であると発言した。海上保安庁に対するアメリカ代表とソ連代表の応酬は、激しくなる一方であった。結果として、対日理事会の機能は、当初の目的である最高司令官の諮問機関としての役割を果たすことなく、皮肉にもソ連のプロパガンダの場所を与えただけであった。
 
4.海上保安庁の成立
 1948年3月18日、各省次官会議は、警察、税関など関係各省庁間の業務調整要領を決定した。3月25日の次官会議では、海上保安庁を急速に設置する必要性から内閣総理大臣の監督のもとに海上保安庁設� ��準備委員会を置くことに決定した。4月15日、最終案は、芦田均内閣によって承認され、審議らしい審議もせずに、国会を通過した。4月27日、海上保安庁法が公布され、5月1日に海上保安庁は発足したのである。海上保安庁発足当時の船舶保有量は、巡視船29隻(旧日本海軍の木造駆潜特務艇28隻と敷設特務艇1隻)と巡視艇103隻(船種は大小さまざま)の合計132隻(6,511.3総トン)であった。発足以後、海上保安庁は、船舶の拡充を図った結果、巡視船7隻、巡視艇38隻計45隻を取得できたが、多くが老朽船のため巡視船1隻、巡視艇23隻計24隻を1年以内で廃棄せざるを得ないほど貧弱な勢力であった。海上保安庁が、新造船を建造できるようになるまで、あと2,3年待たなければならなかったのである。

 

おわりに
戦後の日本は、占領政策において、非軍事化・民主化の道を歩むことになった。日本の軍隊は、すべて武装解除され、復員することになった。しかし、海軍の一部は、GHQの指令により、復員しなかった軍人もいた。彼らは、機雷を掃海する作業に従事した。だが、海軍の解体により、海上の治安が顕著に悪化した。日本に対する密入国や密貿易、密漁などの悪質な犯罪が増加した。このため、海上保安に関係していた各省が、独自の案を作成して、海軍に変わる組織を考えたが、船舶と船員の不足やGHQの非軍事化政策により、新しい海上保安組織の創設ができなかった。GHQは、初期の占領政策に合致する海上保安組織を生み出すため、アメリカのコースト・ガードのミールス大佐を来日させた。ミール� �大佐は、日本にアメリカのコースト・ガードのような組織を創設しようと考え、大久保武雄らと協力して、新しい海上保安組織を考案した。最初の海上保安組織案は、規模が大きく、船舶の速度や武装などの制限がなく、海軍のような組織になっていたが、GHQの民政局や極東委員会、対日理事会において、日本に対する警戒感と占領政策に対する違反であるという反発が起こった。日本政府は、各国の警戒感と猜疑心を払拭するため、法律の厳格化などのあらゆる手段を尽くして、海上保安庁を新しい海上保安組織として創設したのである。


主要参考文献
ジェームズ・E・アワー著、妹尾作太男訳『よみがえる日本海軍』全2冊、時事通信社、1972年。
大久保武雄『海鳴りの日々』海洋問題研究会、1978年。
大嶽秀夫『再軍備とナショナリズム』中央公論社、昭和63年。
 同上 『戦後日本防衛問題資料集』第1巻、三一書房、1991年。
海上幕僚監部防衛部編『航路啓開史』海上幕僚監部防衛部、1961年。
海上保安庁総務部政務課編『十年史』平和の海協会、1961年。
海軍歴史保存会編『日本海軍史』第4巻、第一法規出版、平成7年。
田中明彦『安全保障』読売新聞社、1997年。
読売新聞戦後史班編『「再軍備」の軌跡』読売新聞社、1981年。



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