2012年4月11日水曜日

インドの歴史


デリー・スルタン朝

 

 

 

 

 

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クトゥブ・ミナール(デリー 世界遺産) Wikipedia

 イランのサーマン朝からアフガニスタンで独立したガズナ朝や次にガズナ朝を滅ぼしたゴール朝は、しばしば北インドへ侵入した。北インドに侵入したゴール朝の将軍アイバクは、そのままインドにとどまり、1206年に奴隷王朝を建てた。首都はデリー。

 これより300年間、デリーを都としてスルタンの称号を用いたイスラム王朝が興亡を繰り広げた。この時代をデリー・スルタン朝という。イスラム王朝とは、奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝の5王朝である。トゥグルク朝の時代の1398年にはティムールにデリーを侵略された。

 最後のロディー朝はムガル帝国に滅ぼされる。

ムガル帝国
Mughul

 

 

 

 

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タージ・マハル(アグラ 世界遺産) Wikipedia

 中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの一族バーブルが北インドへ南下し、1526年にデリー・スルタン朝最後のロディー朝を倒してムガル帝国を建国した。ムガルとは、モンゴルのこと。

 3代皇帝のアクバルの時に、アフガニスタンから北インドにかけての広大な領域を支配し、大帝国の基礎ができた。また、ヒンドゥー教徒の娘と結婚し、イスラームとヒンドゥーの融和を図った。社会は安定し、ヨーロッパ諸国との交易も活発に行われた。

 5代目のシャー・ジャハーンの時代に帝国は最も繁栄し、その支配領域はデカン方面にもおよんだ。アグラには亡き妻の霊廟タージ・マハルが22年かけて建設された。

 6代目のアウラングゼーブは、厳格なイスラム教に基づく統治を行ったため各地で反乱が勃発した。18世紀に入ると帝国は衰退し、デリー周辺に領土を持つだけの地方政権になっていった。


英国の次のトップ用いるモデル

英蘭のインド進出

 

 

 

 

 

 

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ムガル帝国の最大版図

 スペインやポルトガルに代わって、イギリスとオランダがアジアに進出してきた(東インド会社)。1623年、オランダはモルッカ諸島のアンボン島のイギリス勢力を駆逐し、東南アジアからイギリスを締め出した(アンボイナ事件)。

 インドの経営に専念することになったイギリスは、1639年にマドラス(現チェンナイ)に進出、カルカッタ、ボンベイなど次々と拠点を作った。一方のオランダはポルトガル領スリランカを手に入れ、インド南部のコーチンに進出したが、イギリスとの競争に敗れ撤退した。

 フランスはポンディシェリに拠点を築いて勢力を伸ばすが、1757年のプラッシーの戦い(plassey)でイギリスに敗れインドから撤退した(パリ条約)。

英領インド帝国

 

 

 

 

 

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イギリス軍と戦うラクシュミー・バーイー(Wikipedia)

 イギリスは、地方に進出し各地の政権を次々と征服していった。南インドのマイソール王国とのマイソール戦争、中部インドのマラータ同盟とのマラータ戦争、西北インドのシク教国とのシク戦争で勝利し、インド全土を征服した。19世紀に入ると、ネパールやスリランカも占領した。

 その後イギリスの産業革命によりインドの産業は崩壊、植民地支配が加速された。これに対して、1857年、デリー近郊のメーラトでインド人傭兵(セポイ)が蜂起し、これが全インドに広がる大反乱になった(セポイの反乱またはシパーヒーの反乱)。


トップランクの病院

 この反乱で、インド中部の小王国ジャーンシーの王妃ラクシュミー・バーイー(Lakshmibai)が立ち上がった。白馬にまたがって戦う王妃のもとに結集した反乱軍は、近代装備のイギリス軍を圧倒した。王国の城を取り戻し、何度か敵の大軍を蹴散らすが、最後は銃弾に倒れた。23歳の若さだった。「インドのジャンヌ・ダルク」と、人々は今でも敬愛の念を込めて彼女のことをそう呼んでいる。

 この反乱は翌1858年に鎮圧され、ムガル帝国皇帝バハードゥル・シャー2世も反乱に加担したとしてミャンマー(ビルマ)に追放され、350年続いたムガル帝国は消滅した。イギリスは東インド会社を解散し、1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任、イギリス領インド帝国として直接統治を始めた。

国民会議派
英国王ジョージ5世訪問記念に造られたインド門(ムンバイ)

 インド帝国は、イギリス直轄領と、550以上の藩王国から成っていた。イギリスは藩王国の自治を認め、インドが団結して抵抗できないような巧妙な分割統治を行った。また、インドの知識人から成るインド国民会議を設置し、インド人の地位向上や古い因習を廃止する活動を行わせた。

 20世紀に入ると、日露戦争での日本の勝利などに刺激され民族的自覚が芽生え反英機運が高まっていった。1905年、イギリスがイスラム/ヒンドゥ両教徒の分離をはかるベンガル分割令を公布すると、 国民会議派はこれに強く反発した。

 1906年、カルカッタ(コルカタ)の国民会議で、英貨排斥、スワラージ(自治獲得)、スワデーシ(国産品愛用)、民族教育の4綱領を決議した。イギリスは親英的な全インド・ムスリム連盟を発足させて国民会議派と対抗させたり、1911年には分割令を撤回したが民族運動は年々強まっていった。


免許停止といくつかの運転を報告する方法
マハトマ・ガンディー
インド独立の父 マハトマ・ガンディー

 第一次世界大戦が起こると、イギリスは戦後の自治を約束してインドから兵員と物資を負担させた。しかし、戦後イギリスはこの公約を守らなかったばかりか、1919年に令状なしの逮捕、裁判なしの投獄を認めるローラット法を施行して民族運動を弾圧した。

 これにインド国民は態度を硬化させ、国民会議派のガンディーの指導のもとに非暴力・不服従の運動を始めた。ガンディーの登場は、知識人主導だった民族運動を、大衆運動に発展させた。また、インド・ムスリム連盟もこれに協力し、運動は全インドに広がっていった。

 1929年、国民会議派の大会で、ガンディーやネルーの指導のもと、プールナ・スワラージ(完全独立)が宣言された。翌1930年には、イギリスによる塩の専売に対抗するため、自分の手で塩を作る運動(塩の行進)を開始した。

 これに対してイギリスは、民族運動の指導者を英印円卓会議に招いて懐柔をはかったが成功しなかった。1935年、イギリスは新インド統治法を発布し、各州の自治拡大を認めた。しかし、独立の目的はなお達成されなかった。

独立

 

 

 

 

 

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ボースが眠る杉並区蓮光寺

 第二次世界大戦では国民会議派の急進派だったチャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)が日本の援助によってインド国民軍を結成した。インド国民軍は、マレーシアやシンガポールで捕虜となった英印軍将兵から志願者を募って創設された。総兵力は約45,000人に達し日本軍とともにインパール作戦にも参加した。日本の降伏後、ボースはソ連に向かって台湾から飛び立ったが、墜落事故により死去した。ボースの遺骨は杉並区の蓮光寺で眠っている。


 戦後、インド国民軍将兵の裁判が行われたが、インド国民は激しく反対しイギリスは譲歩した。イギリスはインド統治の放棄を決断し、総選挙が行われた。その後、国民会議とムスリム連盟の対立は深まり、1947年8月15日インドは独立、同日にパキスタンも独立を宣言した。翌1948年にはセイロン(スリランカ)が独立し、イギリスの植民地支配は終わった。

 イスラム教徒との融和を説き、分離独立に反対したガンディーは1948年、狂信的なヒンドゥー教徒に暗殺された。初代首相にはネルーが就任した。

カシミール問題
カシミール地方(赤枠内が旧カシミール藩王国。緑がパキスタン占領地、橙はインド占領地、斜線部は中国占領地、茶は1963年にパキスタンが中国へ割譲した地域)

 インド独立前は、国内に散在する藩王国をイギリスが間接統治していた。1947年のインド独立は、ガンディーの一民族論を掲げるインドと、イスラム教徒は別個の民族と見なす二民族論のパキスタンに分裂した。

 インド、パキスタンが分離独立したことで、藩王国はどちらに帰属するかを迫られた。カシミール藩王は自分はヒンドゥー教徒、住民の80%はムスリムという微妙な立場にあった。そこにパキスタンが武力介入したため、藩王はインドへの帰属を表明し、インドに派兵を求めた。これが第一次印パ戦争である。

 その後、1965年に第二次印パ戦争が起こり、バングラデシュの独立をインドが支持したため第三次印パ戦争(1971年)が起こった。両国の対立は現在も続いている。現在は、中間付近に停戦ラインが引かれている。

【カシミア】 高級織物のカシミアはこの地域原産のカシミアヤギの毛から作られる。

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【参考資料】



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